こんにちは、吉田繁治です。前号<海の上の蜃気楼:ベネチア>に続
き、イタリア紀行の第2部。仕事で行くのは米国が多い。西欧は米国
の5分の1くらいの頻度で1年か2年に一回です。前回は2年前の金
融視察、スイスのプライベートバンクとロンドンのデリバティブでし
た。金融は目に見えるものではなく、数式と確率ですが。
イタリア人、ファビオ・ランベッリが書いた『イタリア的考え方』(
ちくま新書)は、日本人の粗略なイタリア観を変えるものですが、冒
頭に、面白い記述があります。
<5、6年前ある有名な日本の週刊誌が、「世界で一番愚かな国民は
?」というテーマでアンケートを行いました。その結果は驚くべきも
のでした。日本人が考える世界で最も愚かな人たちはイタリア人だっ
たのです。(愚かのイタリア語訳は、stupidoだったと言います)>
<stupidoは「あほ」、「ばか」とか、「頭のよくない」、「間抜けな
」、「精神薄弱の」という日本語の表現にあたります。>
アジアの諸国に対し、これに類することを言えば、日本製品や日本人
排斥、または国交断絶の「政治問題」に発展したかも知れません。世
界で最も「あほ」とされたイタリア人の反応は、どうだったか。
<このニュースがとるにたらないバカげたものであるにもかかわらず、
イタリアのマスコミはアンケートを大きくとりあげ、何ヶ月も全国
で話題になっていました。・・・今でもイタリア人は、5、6年前日
本で行われたこの調査結果を苦々しく覚えています。>
これに類することですが、90年代の旧大蔵省は「日本の国家財政の
赤字はイタリア並み」と指摘すれば、他のどの国と比較するより激し
く、「そこまでは悪くない」と反応したと言います。
GDPの3%以下の、国家の赤字を条件とするユーローの形成で財政
を回復させたイタリアを、今は赤字では日米両国がはるかに突き抜け
ています。
日本人が親しみを感じながら、分からない国がイタリア。2時間も昼
食にかける、昼食で帰宅する、店は休みが多い、女と見れば声をかけ
る、スパゲティは前菜、よく食べる、陽気でいい加減、マフィアの地
下経済、官僚や政治家の汚職と、マフィアにつながるスキャンダルの
国というのが、ステレオタイプな見方でしょうか。
西洋人にアジアを区分できない人が多いように、アメリカ以外の西欧
はひとまとめにするのが、多くの日本人です。
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<Vol.184 紀行:巨大廃墟と並存する都市ローマ>
【目次】
1.イタリアという発祥
2.西欧一般
3.資産家とビジネスマン
4.廃墟が現存する都市:ローマ
5.見る
6.創世の物語り
7.自然と文字、そして観光
連絡事項
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■1.イタリアという発祥
▼ビジネスと仕事:米国と日本
米国は、乱暴にまとめれば「ビジネスの国」という印象。ビジネス・
マネジメント、あるいはマネジャー文化(CEOを含むマネジャーの
行動様式)が支配的な国という感じがします。
米国人にとって「ビジネス」は、われわれがその言葉で受け取る「仕
事」と違う内容をもっていると感じ始めたのは、10年くらい前から
です。「さぁ、ここからビジネスの話しをしよう。」と言うときは、
利益や成果、露骨には「金儲け、あるいは利益分配の話」というニュ
アンスが強い。
ビジネスの成功がアメリカン・ドリームであり、この言葉は命脈を保
ち、自由とチャンスを、他のなによりも大切に奉じるアメリカの社会
を象徴しています。ここが、米国社会の命です。これがなければアメ
リカは崩れる。
プロスポーツのゲームで、勝者は賞金額を大きく書いた小切手を両手
で掲げ、抜けるように青い空の下でスタンディング・オベーションの
賞賛を浴びる。象徴的なシーンです。
ビジネスをしない人となると、年金、金利、株や配当、ボランティア
やNPO、あるいは不動産のレント(地代)等で生活するリタイアメ
ントのグループをさしています。
日本の雇用制度の慣習になっている、一律の年齢での定年という制度
は、法的には年齢差別として禁止とされますが、現役からのリタイア
メントは、金儲けのワークから解放されたという双六(すごろく)の
あがりのような感覚を含んでいます。
一般に、解雇はさしたる理由がなくても日常的なこと。マネジャーや
ボスが「ファイア(首)」と言えば、その日のうちにデスクの私物と
会社のものを分別し、映画だけではなく本当に段ボールを抱え、犯人
のようにボディチェックを受け退散する。ビジネスを行う場である会
社との関係は切断されますが、すぐ後には同じ職能(job function)
で別の会社に移動する。
他方、ビジネスに相当する日本語の「仕事」は「事や会社に仕えるこ
と」、イエである会社あるいは、イエとイエの関係である社会への「
貢献」という意味内容も含んでいます。二家に仕えずが倫理。
会社での仕事のポジション(job class:職階)が、ほぼそのまま「社
会での地位」も示し、「部長であること」が本人の存在証明たるアイ
デンティティにもつながっています。
そして、会社での仕事を通じ社会へ貢献することに意味を見いだす。
そのため退職は、あるいはリストラを受けることは、深刻なアイデン
ティティの危機になることが多い。今、多くの会社で起こっています。
「どこにお勤めですか?」という型にはまった挨拶が、相手との関係
のはじまりになる。「いや、どこにも・・・」と答えれば、その人の
位置づけに戸惑う。社会との関係で、浪人や隠居に積極的な意味合い
を見つけることは難しいのです。
ジョブ・クラス(役職)を示した名刺を交換しないままでの個人の関
係に、居心地の悪さを感じます。どういうふうに敬語や謙譲語を使っ
ていいかわからないからです。国語は、敬語や謙譲語で主体(主語)
と他者の序列を含む関係を表現しています。
(注)しつこいくらいの年齢の確認も似ています。米国では、一般に
履歴書には年齢だけではなく性別(!?)も書かない。
同業の会社にも序列があり、一流や二流がある。以前は中央官庁と都
市銀行が頂点でした。90年代の10年で、これは崩れていますが。
■2.西欧一般
西欧一般では、会社をもつ資本家・土地をもつ地主、そして金融資産
家と労働者が分別される階級社会が連綿と続いています。日本の戦後
のような清算はなかったのです。階級の固定性が強い。
フランス、ドイツ、イタリアで共産主義が強く、高福祉の社会民主主
義が政治的な主流になっている理由は、所得と資産の格差が大きいた
めです。
ビジネスという言葉には注意深く聞けば侮蔑のニュアンスが含まれま
す。生活の糧を、日々稼がなければならないくらい資産がない労働者
という意味合いがあります。(アメリカとの対照で言っています。ど
この国にもアメリカ的なビジネス文化はあります。文化とは価値判断
と行動の、他と区別されるスタイル)
オフタイム、またはレジャー、休暇、あるいは引退後のために働くと
いう行動様式は、南方のイタリアのみならず北方のドイツも含み、西
欧一般では支配的です。「明日から休暇」というひと言で、仕事の中
断が公式に許される雰囲気があります。七曜の日曜日を聖なる日とし
てきた休みの意味合いが違います。
新聞やビジネス誌を読み、ホテルにまでパソコンを持ち歩く米国人と
日本人ビジネスマンは、ワーカホリック(仕事中毒)に見える。
フロントに電話し、インターネットへの接続は?と騒ぎ、旅先でワー
プロを叩く私もこの類(たぐい)。
イタリアでは、日米で盛んなホテルでのビジネスセミナーは少ない。
ホテルのインターネット接続も不便です。ホテルと仕事は、異質なも
のであって、結びつかないのかもしれませんね。
米国人、日本人、そして最近目立つ中国人観光客が行く有名ブランド
店は、フランス・イタリア・ドイツそして英国でも、一般の人が近づ
くことは稀。世界の有名ブランドのバックをもったイタリア人は見か
けることが少ない。
おしゃれは、どこの国でも自己表現ですが、その自己表現が、既製の
ブランドバッグをもつこととはあまり結びつかない。
西欧の資産家は、既製の有名ブランドよりオート・クチュール、つま
りオーダーメードの注文服で個性と階級差の表現をします。
CRM(「個客」との関係管理)の原点も、身体の採寸を永久保存す
るオート・クチュール。(注)日本の女性の高価な和服は、一生もの
とされ、時には母のものを受け継ぐフリーサイズでしたね。厳密な意
味でのオート・クチュールではない。
CRMは、個別オート・クチュールのシステム化・大規模化、マス・
カスタマイゼーション、そして低価格化と言えば、その原理が理解し
やすいでしょうか。
プレタ・ポルテ(仏語pret a porter:英語ready to wear)の原義は、
高額ではあってもSMLの三区分やもっと細分化した標準サイズの量
産既製服であり個別仕様のオート・クチュールの下に来るものです。
一点のブランドではなく、他のものとの調和とハーモニー(階調)、
あるいは「コーディネート」がファッションとして価値とされる。
そして資産家は、毎日会社に行くようなビジネスはしない。米国のC
EO的な人(代表執行役員)を指名し、彼らに資産の運用(会社のマ
ネジメント)であるビジネスを実行(執行)させる。
株をもつ資産家は、ビジネスの結果のモニタリング(監視)機能を果
たしています。西欧一般に、米国や日本のような株式の公開は、目標
とはされていない。米国のような株式市場の発達はないのです。
西欧では日米では見えなくなった資本家が、中国の華僑のように今も
見えるのです。
■3.資産家とビジネスマン
投資の決定が、資産家のビジネスであり、日々の運用はビジネスマン
に委嘱します。そして、成功した資産家はパトロンとして文化へのス
ポンサリングをする。
日本風に言えば、相撲のタニマチ的です。ビジネスつまりはお金で動
くプロスポーツマンやプロフェッショナルの芸術家(原義は職人)を、
資産家のアマチュアであるタニマチが養って、支援することと似て
います。
アマチュアには未熟ということでなくお金で動かない趣味人という肯
定的な意味も含まれます。オリンピックの伝統は活きています。
ビジネスを実行する近代の株式会社、そして株式会社の真実性の原則
による株主への報告であり、投下資本と生んだ利益を分けて計算する
方法である複式簿記(その計算結果が、貸借対照表と損益計算書)は
、イタリアの13世紀からの重商主義に発します。
海を城塞とする海上都市国家であるベネチア(前号:ベニスの商人)
で発達したビザンチンとの東方貿易は、貴族と資産家が行う船舶への
投資でした。
貿易で得られる価格差が、資本の利益であり、時には数年をかけた遠
洋の航海が無事終われば、資本(帆船)が交易で生んだ利益を計算し、
資本家が利益の分配をした。
▼スポンサリング
15世紀・16世紀のイタリア・ルネサンスも、富を蓄えた教会、貴
族、資産家の、職人へのスポンサリングが生んだものです。有名ブラ
ンドも、例えばエルメス等を含め、革を使う馬具、宝飾、アクセサリ
ー、注文服を作る職人から発しています。
銀行の発祥も、金細工の職人が、貴族や資産家の宝飾品を預かって保
管し、紙の預かり証(紙幣の原点)を発行したことからです。
職人は流派の加工技術を秘伝として守り、他との技術と製法の差異を
価値としていた。(そして、つきぬけた技が生まれる。)
この職人の技術を標準化・規格化したのが、100年前の科学的管理
法のテイラー、車ではフォードにはじまる米国型ビジネスとしての量
産です。そして、アメリカ型のビジネスをモデルにし、現場参加型の
QCで米国流のワーカー製造業を超えたのが日本です。
車のエルメスに相当する、実用性を超えた馬力のフェラーリを頂点に
するような、イタリアの職人生産、つまり町工場の工業は、今はもう
他に見ることは少ない。(日本には、可能性があると見ていますが)
街でフェラーリを探したのですがあまり見かけませんでした。アメリ
カのほうが多い。トヨタも少ない。馬車用だった石畳の、狭い道で目
立つのは、可愛いミニカーの2人乗り「スター」です。小型車の日産
マーチはブームになったようです。大阪と同じように、道路駐車。(
笑)
石造りの街は、中世から区画が固定。掘れば文化財だらけで地下も掘
れない。ローマの随所に、発掘される途上の遺跡が放置されています。
ゲルマンのドイツと北欧を除けば、ラテンであるフランス・イタリア
は「仕事の組織化(=標準工程化)」が苦手であるように思います。
ラテンであるフランスのグローバル・チェーンストア「カルフール」
のシステム化の弱さにもそれを感じます。
ドイツと日本が得意な自動化化は、イタリアでは発達していません。
標準工程にするには、職人の個性と技芸が強すぎるのでしょう。自分
は、他とどう違うかを主張する。
職人の仕事はデザイナー名やグッチ家等の紋章を冠した流派になりま
す。流派の仕事の方法と技法は、ビジネスモデルとして公開されるこ
とのない秘伝です。日本の家元制度に似ています。
もちろん冒頭でも述べたように、米国流の量産のビジネス文化は、西
欧・アジア・日本を含め支配的ではあります。しかし基底を見れば、
違いを感じます。
ローマでは誰もが行く円形闘技場コロシアムと、カトリックの総本山、
バチカン市国の博物館・大聖堂を訪れました。
■4.廃墟が現存する都市:ローマ
ローマ市街をバスでめぐっていると、いたるところ紀元前や紀元後の
、石の建造物や彫像・彫刻がボコボコと見え、廃墟になった古代ロー
マ帝国を訪れているような錯覚にも襲われます。
京都や奈良に行っても、廃墟の現存という感じはない。
木の寺院・寺社として残る歴史は、続けて手を加えることがなければ
、朽ちて腐って消えます。今残っている歴史的なものは、所有者や管
理者が変わって受け継がれたものです。
古代ローマの剣闘士が見世物として、しかし負ければ刺されて死ぬ舞
台として戦い、6万人の観客が歓呼して見たというコロシアムは、爆
破しない限りは、数千年でも残ります。
コロシアムは紀元80年、1900年以上前に、贅を尽くした暴君ネ
ロの自殺後に帝位についた、ウェスパシアヌス帝が建造したものだと
言います。王が、市民に与えるパン(食)とサーカス(娯楽)。ロー
マ帝国は、コロシアムが建造される約100年前(紀元前27年)、
オクタビアヌス帝にはじまっています。
英雄シーザー(カエサル)が暗殺されたのが、その17年前(紀元前
44年)。信者を集めていたイエスが、十字架にかけられたというの
が紀元後30年です。
コロシアムが作られた紀元80年ころは、日本は土器・石器の素朴な
縄文から、金属文化の弥生へ移行期でした。
東アジアのローマ帝国でもあった中国の後漢の人々から、倭人(こび
と)と言われた原日本人は百余国に分かれていたという。都市ではな
く、ムラの文化が原日本でしょう。
福岡県の志賀島から出土した「漢倭奴国王」の小さな金印を、後漢の
光武帝から授けられたのが、紀元後57年とされます。卑弥呼や倭国
は、形跡がたどりにくい伝説(諸説があります)。
日本の歴史的なものは、実際に見れば、多くが教科書で読み想像して
いたものより小さく、意外に思えるくらいみすぼらしい。
ローマの2000年も前の建造物や彫刻はイマジネーションを超え大
きく、固く、絢爛豪奢です。今はもう、こんなものは作れるわけがな
いと思える。残すことができるだけです。
2000年という悠久の時間が、パノラマを見るように目の前に縮小
されるのがローマ。数百年もかけ建造するのは、素材が石だからです。
木ならこうはいかない。
「近代」が到達したものがあるいは近代の建築が、脆弱で「経済的」
で粗末なものに見えます。廃墟がこれくらい活き活きとした近代都市
は、他にないのではないかと思えます。
コロシアムはローマの市街に、人が住む住宅のすぐ側の、巨石建造物
として遺(のこ)っています。ローマの人々は日々こうした廃墟を見
ながら生活している。
ローマに限らずイタリア中で、今はとても作ることができないような
巨大廃墟が、生活現場に現存します。フィレンツェからローマまでユ
ーロスター(新幹線)に乗れば、窓外を飛ぶ景色の至る所、城や城壁
の跡が見えます。
巨大瓦礫に見えるコロシアムに立ち、想像力を凝らせば、一撃で相手
を切り裂く大きくて重い剣を、燦然と輝かせる華やかで残虐な戦いに
歓呼する6万人の観客の、地鳴のような声の幻聴に襲われます。
ローマ時代の甲冑や剣は、巨人でもなれけば身につけて振り回せない
ように、重く大きく、殺人の武器として露骨です。同じ武器でも肉を
削ぐような繊細な日本刀とは違うスタイルを感じます。
彫刻された巨石は、古代の職工の高い技を残し、技芸に細部は痕跡と
して現存し訴えかけて来ます。人は、毎日それを見る。
2000年も前のものが目の前に現存すれば、違った歴史観になるに
違いないと思えるのです。古代ギリシアやローマ帝国が「終わった後」
を生きる、あるいは修復する歴史観でしょうか。
15世紀・16世紀のイタリア・ルネサンスが古代ギリシアの「再生
・復古」であることに、疑問をもっていました。再生や復古は日本の
歴史では、意味がないように思えたからです。
しかし「見れば」、古代ギリシアの時代から約2000年、ローマ時
代からは1500年後のルネサンスの再生や復古が情熱をもった運動
であったことが分かるのです。
■5.見る
東洋の文化であり、認識の枠組みである漢字の深さを教えてくれる白
川静の『常用字解』を手かがりに「見」をたどれば・・・・
<目を主とした人の形。人を横から見た形「儿(じん)」の上に大き
な「目」をかき、人の目を強調して、「みる」という行為をいう。>
「見る」は、目と人の合成だったと分かる。更に、<見るという行為
は、相手との内面的な交渉をもつという意味で、例えば森の茂み、川
の流れを見ることは、その自然のもつ強い働きを身に移し取る働きで
あった(同書)>
「見る」ことが、「自然のもつ強い働きを、身に移し取る働き」とい
う深さをもっていたことを知ることができます。日本を理解する鍵は
「自然のもつ強い働き」という思想です。
<「万葉集」に「見れど飽かぬかも」「見ゆ」という表現が多いが、
それは対象の魂をよびこむことによって新しい生命を身につけるとい
う観念を示すものだった(同書)>
万葉人(びと)が、自らにあらたな生命を吹き込むように「見た」のは
「森や川」の自然だった。古来この国では、人間の技芸(art)ではな
く自然(nature)こそが人に生命を吹き込むものとして見られていた
ということが分かります。
今、万葉人のように、われわれは自然を見ることができるか。セザン
ヌはリンゴをどう見ていたのか。ピカソは人間をどう見たか。ミケラ
ンジェロはどういった世界観をもっていたか?
西洋的な「神」は万葉人にとってはおそらくは「自然」だった。自然
を見たときのそうした感興は、われわれが受け継ぐものです。
西洋的なものは、人工の技芸、圧倒する存在感をもつartです。人工の
ものと対照される自然は、人間も含め、旧約聖書に記されているよう
に「唯一神(ヤハウェ)」が創ったとされる。
宗教と言えば、われわれにとって謎です。人生の通過儀式である冠婚
葬祭でしか係わってこない。本稿では、宗教論は展開しませんが、イ
タリアに行けば宗教とは何かと考えこんでしまいます。
■6.創世の物語り
旧約聖書には、人間は神の姿に似せて土塊から、そして女は(男の)
あばら骨から派生物のように神がつくったと記されています。
<そこで(唯一の創造主である)ヤハウェ神は、人に睡魔を渡し、こ
んこんと眠らせた。あばら骨を一本抜き取って、そのあとを肉でふさ
いだ。そして抜き取ったあばら骨で女を作った。(旧約聖書:創世記
)>
人間を含む自然の無意味さを示す記述のように思えてなりません。
なぜアダムのあばら骨からか、鶏の手羽先から女(イブ)を作るよう
で、訳がわかりませんが、啓典には書いてあることであり、ミケラン
ジェロも男のあばら骨から出てくる女を、『最後の審判』の壁画に描
いています。
意味があるような、ないような不思議な絵です。
案内をしていた、ローマ大学を出たというイタリア人の、日本語が巧
みで知識が豊富な女性ガイドに、イタズラをするつもりで「カトリッ
クの信者には、こうした旧約聖書の創世記を、今でも信じている、原
理主義の人がいますか?」と訊ねてみました。
普通の場面ではばかばかしくなる問いを発したくなるくらい、神が君
臨しているように見えるバチカンのサン・ピエトロ大聖堂は、大きく
重く華麗で圧倒する存在だったのです。
彼女はうまく答えました。「聖書には、そう書いてあります」 答え
はこれしかない。なるほど「啓典宗教」(書かれた聖書に真実がある)
です。聖書こそがキリスト教。
土塊から人間を創ったのが神(旧約聖書)であるとすれば、石をノミ
で刻む彫像への人々の情熱が分かるような気がします。
人々は神話の神を模倣し、石で人の像を造った。ミケランジェロにと
って彫刻は、神からの委託を受け、天地を創る創造だったのではない
か。『最後の審判』の壁画を見て、そう思えたのです。
旧約聖書を読みば、神が無造作に作ったように思える自然は無意味で
、技芸が作る人工のものに永遠に至る価値があるように見えます。こ
れは、自然を模倣する日本の芸術の淵源と異なるように思えるのです
。
レリジョン(religion:宗教)の語源は、繰り返し読むこと(re-lir
e)から来ています。
そして、西洋人であるドラッカーが、至るところで言っている仕事の
「完全」ということの意味が、ミケランジェロが21歳から23歳の
とき彫ったピエタ(死に行くキリストを抱くマリア)の像を見て、分
かったような気にもなったのです。
「完全」を了解できたのは「観光」の収穫でした。
固い石でマリアが着る衣裳の、なめらかで柔らかな質を表わす。処刑
されたキリストの、力を失いだらりと垂れた右腕で、温かかった血が
次第にさめていく固定された時間までを見ることができる。
石という固い素材と、表現された柔らかなものの矛盾は、完全という
概念で統合されています。
ミケランジェロは神を写したのではなく、大理石で神を創造した。神
は土で人を創ったかもしれない。しかし人こそは神を創った。
唯一神によって、世界は一元的に解釈が可能なものになった。キリス
ト者の情熱は、唯一神の創造だった。これは意味づけと解釈の欲望で
しょう。そしてミケランジェロは、神に、世紀を超えて遺るフォルム
(具象)を与えたように思えます。
ピエタの写真は↓ここに載っていました。私が撮ったものではありま
せんが。
http://www.christusrex.org/www1/citta/Bs-Pieta.jpg
完全なピエタの像ですらも小さく見えるバチカンのサン・ピエトロ大
聖堂は、16世紀に110年余をかけ建造されています。ローマ教皇
と700名の使徒もこの市国内に住む。
世界で10億人と言われるカトリックの総本山。言葉での形容を超え
ます。人は沈黙し、見る目だけになる。古来のバチカン巡礼は、神と
光を「見る」観光だったと、嘘でなく思えます。
■7.自然と文字、そして観光
日本人にほぼ共通するのは、人工ではない「自然」に戻ると言うとき、
肯定的な意味があるということです。自然が生命の源とされ、それ
を見ることによって、人は「自然のもつ力」を吹き込む。
これが「見る」ことだった。
ローマ人にとって「自然」は何だったか。おそらくは、旧約聖書の創
世記の世界だった。バチカンに立てば、神話的な世界が見えます。
神話とは何か。人々の、口伝された共有的な世界認識の枠組みと意味
づけを示すものです。紙と文字を使わない時代は、記憶の方法が異な
っていたように思えます。
「科学」といわれる方法は、神の言葉ではなく事実と真理を探求しま
す。科学の共通言語は「数学」です。近代以降の、われわれの認識の
基底には、数学的な世界観があります。
一方で「言語」は事実の意味づけ、関係づけ、認識の方法を示す。森
や川を見て生命が吹き込まれるように感じたのは万葉人です。事実と
しては同じである自然を見ても、人の認識の方法と「見て」意味づけ
るものは多様です。
「観光」にも深い意味があったようです。観とは何か?
<元の字は觀(かん)。鸛(こうのとり)で神聖な鳥とされ、鳥占い
などに使われたものと思われる。コウノトリを使って鳥占いをし、神
意を察すること、「みる、見きわめる」ことを観と言ったのであろう。
(常用字解)>
「観」を見きわめることとすれば、観光は「光」を見きわめる。語源
に遡ることは発見を与えます。漢字文化の東洋は、ローマのような建
造物ではなく「文字」に重きを置き、そこに深い意味を与えたのでは
ないか?
表音のアルファベットを使う西洋言語が、論理的・数学的・事実的で
あるのに対し、漢字は情緒的・表意的・具象的なものです。
われわれは漢字をたどることによって、数秒で古代中国や万葉人の世
界観にいたることができます。
「ローマの歴史が建造物なら、東洋の歴史は文字と書にあり」とも思
えたのです。文字は、認識と意味づけの手段です。
■連絡事項
先端流通ビジネス視察・研究ツアーは、5月27日(木)ころから〜
30日(日)ころを中心にニューヨークを背景に従来と同じような開催
要領で行う予定です。日程を含め詳細が決定次第、このメールマガジ
ンでお知らせします。
『利益経営の技術と精神』(商業界:筆者著)は、2月23日から全
国の主要書店で発売されています。アマゾンでも注文することができ
ます。利益経営の技術と精神、で検索してください。
http://www.amazon.co.jp
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<136号:形容詞と副詞の経済論を超えて(4)>
まとめと冒険的な結語
【目次】
1.振り返って注釈
2.全体最適のない部分行政
3.事実と認識
4.国家は最後の貸し手に依存
5.日銀がマネー供給を絞ることができるか
6.過去はなかった現象がなぜ起こっているか
7.金融資産は今が(ハイパーに近い)インフレ
8.04年1月時点での、論の冒険的な結語
【趣旨】
本稿では、前2号をまとめ、結語を示しています。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
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【既発行分のバックナンバータイトル一覧↓】
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